2007年08月18日

久々源氏物語

とーとつですが、講談社文庫で、毎月一巻ずつ出ている、瀬戸内寂聴訳の「源氏物語」に、けっこうハマっています。

昔の女子(腐女子含む)って、高校生くらいの時に、一度は、これの与謝野晶子訳のか何かにハマった経験があるのでは、と思っていたのですが、どうなんでしょう。また、もう少し若い世代は、漫画の「あさきゆめみし」しか読んでないヒトも多いのかも知れません。ま、今となっちゃ、「あさきゆめみし」世代もかなりのおねえええさんでしょうけど。(「え」が一個で10歳又は12歳とお考えください(笑))

話戻りますが、ン十年ぶり(?!)に読む、「源氏物語」は、相変わらず、すごくおもろいです。光源氏は、やはりやなヤローだし、嫌な気分になるような重苦しい逸話も多い小説ですが、(とっても僭越ですけど)やはり傑作だと思います。てか、紫式部は、光源氏をちっともいい奴に書こうとしてないんですよね。容姿は誉め倒していますが、人格的には、エゴイスティックで、陰険で、マザコン&ロリコンで、だらしなくて、全然いい人じゃないんです。でも、その性格付けのお陰もあって、小説の中で、ありとあらゆる人間関係のパターンが出てきます。全部、今の世に通じるというか、今でもそのままのことが起こっていて、けっこうビックリします。

それからもう一つ、平安の昔と今とでは、人と人とのコミュニケーションの取り方が、すごく似ているような感じがして、それも、今と重ねて面白く感じられる一因と思います。

まず、コミュニケーションのとり方ですが、源氏物語の時代の人達って、何かというと、五・七・五・七・七の歌を詠んで、会話代わりのようにやりとりしているではないですか。会える距離にいようが、実際に会っていようが、おかまいなく、歌を書いてはすぐに、直接、或いは、女房や従者にもたせて渡し、時差のないコミュニケーションを展開していたわけです。今の、メールのやりとりと似ていませんか。

PCや携帯が普及していなかった少し前まで、我々は、電話か手紙でコミュニケーションしてたわけですが、メール全盛の昨今の状況って、その頃よりむしろ、このような平安時代のスタイルに、似ているくらいではないでしょうか。

それから、メールと歌には、もう一つ、類似点があります。

携帯メールに特に顕著な現象かもですけど、手紙とは違う、簡略化した表記で、お互いだけわかるような表現で、文章を書きますよね。
そして、源氏物語にふんだんに出てくる歌も、その当時のその階級の中で共通認識としてある、古歌等をベースにして、お互いにだけわかるように、省略した書き方で、綴っていますよね。

つまり、どちらも、同じ時代・年代に生き、同じ文化をもつ人であればわかる、共通認識をフルに活用して、含蓄をもたせ、限りある文字数で、コミュニケーションをはかっているわけです。

そういえば、大昔、与謝野晶子訳の源氏物語を読んだ時には、平安時代の日本って、逢い引きの約束等に電報を多用していた、モーパッサンの時代のフランスが似ているな、と思ったものです。
ところが、今読むと、それより今の日本の方が似ているように感じられるのです。なんつーか、奇遇というか、不思議な感興を覚えるのでありました(^^;)

        ◇

瀬戸内寂聴訳「源氏物語」(講談社文庫)は、今月8巻が出るようです。(あ、別に買わなくても。。。)

        ◇

そうだ!ついでにもう一つ、「恋愛」の仕方も似ているところがあると思ったんで、付け加えてしまいましょー。

平安時代って、貴族の女性は人前に一切顔を出さず、交際は、歌のやりとりから始まりましたよね。歌の返し方等で、男が恋心をつのらせ、会うまでに何度もやりとりすることが、恋愛だったわけですよね。そして、いざ会うとなると、それは、ほぼ結婚が決まることを意味してたような。

今も、ブログやネット見合いサークルで知り合って、メールのやりとりから交際が始まって、会うまで時間がかかるっていう恋愛パターンがけっこうあるようです。この場合も、会った時点では、お互いをよく分かり合っていて、すぐ結婚が決まることが多い、と聞いたような。

うー、しかし、これは案外眉唾かもしれん。ネット見合いサークルの「公称」ってやつで、実体がないかもしれん。誰か試してみた人、おらんかの??

posted by miquage at 22:23| Comment(0) | TrackBack(1) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

けものみちだよ白夜行

「浪花節だよ人生は」そして「けものみちだよ 白夜行」というわけで、ついこの間まで「白夜行」を「北帰行」と間違えてた私ですが、ちゃんと文庫本買って、読みましたよ、「白夜行」!。それなのにまだしつこく、本屋で平積みの「白夜行」見ると「あ、ホッキコーだ」と思ってしまう自分がいます。お許しくだせー>直木賞の東野圭吾センセー。

ところで、「北帰行」って、もしかして「キタキコウ」って読むのでしょうか??湯桶読みになってしまいますから違いますよねー。ってのは例によって遠くにおいといて、読んでわかったんですが、「白夜行」って「けものみち」だったんですね!悪女モノって某所で読んで、ええっ、でもTVだと主役 綾瀬はるかと山田くんがやってんじゃ、と思ってたんですが、ほんとうに原作は、悪女モノだったのでした。しかも、後書きで、馳星州が「ほんまもんのノワールだ」なんて賛辞を捧げるほどのかなりすごい悪女モノ。日本の小説でこういうの久しぶりに読んだように思いました。

あ、TV版の方は2回目をちょっと見ただけなんで、原作通りなのかわかりません。でもさ、あの配役で、原作通りはまず無理なんじゃないの。それとも、大人(20代)になったら、配役が変わるのかなあ。それでも無理だよね。10代があの2人じゃ。趣旨変えて、根底にある少年少女時代の純愛を主役にもってきて、やむをえず悪に突っ走るしかなかったのや路線にするしかないんじゃ。。ま、そんな心配してもしかたないか。ドラマで原作の趣旨を完全変更しちゃうのってよくあることだものね。「野ブタ。をプロデュース」はすごすぎたと思うけど(^^;)

ところで、TVの方の「けものみち」って、松本清張の「けものみち」と「黒革の手帳」をコンバインさせたような作品なんだそうで、やはりこれも原作のけものみちとは随分違うらしいです。でも趣旨は変わってないというかすごい悪女モノって点では変わってないらしい。こっちは趣旨は変えてないけど、設定とストーリーを変えちゃってるわけね。まー、いろいろあらーな。

ここから先は例によってネタばれ無宿になってしまいます〜。

かまわない方はお入りください(^ ^)


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posted by miquage at 23:47| Comment(4) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月26日

薔薇も蒼ざめるたそがれ時(修正済(^^;))

昔買った文庫本を整理してたら、コレットの「シェリ」が出てきました。
この本って、どっかから出てくるたびに読み返してしまうから、もう何回も読んでるかも。
でも、今回は随分久しぶりです。5−6年ぶりになるのかなあ。

続編の「シェリの最後」は割合最近読み返した覚えがあるけど、やはり、「シェリ」の方が名作だと思う。
「シェリの最後」で、主人公シェリは第一次大戦後の独特な虚無感みたいなものに色濃く支配されて、死ぬ。つまり、シェリが抱え込んだ虚無は時代的なものが多分にあって、作品自体もなんというか、時代性に支配された作品って感じがする。それに較べて、「シェリ」はずっと普遍的で、深い。
だって、テーマが「愛の無常」というか、「老い」の残酷さなんだもの。

シェリは、25歳の美青年。50歳の高級娼婦と5年越しの愛人関係にある。
ある時、18歳の平凡な素人娘との結婚が決まり、愛人はシェリをニッコリ送り出す。
だけど、シェリの方は母のような愛人がどうしても忘れられない。
何ヶ月か離ればなれの後、愛人の元に戻ってきてしまう。
しかし、一夜明けてシェリが見出したのは、彼に執着しているただの老婆にすぎず、
愛(と思っていたもの)の終焉だった。

シェリの結婚は、親同士が決めたもので、新妻は「若い」というだけで、彼にとってたいして魅力的ではない。彼女のことを愛して結婚したわけではないし、結婚してから愛するようになったわけでもない。だけど、そのうら若い妻としばらく暮らして、久しぶりに愛人にあったら、その「老い」に気づき、その瞬間に「愛」は終わってしまうのだ。

ヒデー。
つーか、なんというか、身も蓋もない話なのだ。
結局、愛は若さに勝てないんだよ。

「若さ」を「欲望」や「官能」と置き換えてもいい。
ただし、「愛」の方を「欲望」や「官能」と置き換えることはできない。
だから問題は深刻なんだ。
欲望や官能が若さに勝てないのは、その性質上当たり前というか、しかなたいだろってのがある。しかし、長年培ってきた「愛」さえも若さに勝てない(場合がある)、と突きつけられると、ほんとに無常感を覚える。

フランスって、若さより大人の魅力が買われる国じゃなかったけって思うんだけど、ここでも、それでも、人間の本質は、ここまで無常なものなのか、って愕然としてしまう。

ところで、今回、「シェリ」を読み返してみて、モーパッサンの「死の如く強し」って、これまた古い、フランスの小説のことを思い出してしまいました。「死の如く強し」は「ベラミ」なんかと較べると面白くないし、地味だけど、なんかすごく残ってます。これも「シェリ」と同じで、期待を裏切り、「愛」はやはり若さに勝てないって陰険な話なんですね。クソー。

こちらは、年配の作家(男)が、長年の愛人(人妻)が老けたのに比例して、その娘が若い時の愛人そっくりにきれいになってきたのを見て、そっちから目が離せなくなるっていう話です。当然、男より以上に、愛人の人妻は苦しみます。ダイエットして娘と同じ体型を保ち、娘と同じ服を着て姉妹のようにしてみたり、もう涙ぐましい努力をするんです。男の方もなんとかもう一度愛人を愛そうとする。でも、ダメ。何故か全然関心がもてない。還ってこない。

だけど、「死の如く強し」で浮き彫りにされるのは、作者の意図とも違うかもしれないけど、男の方の「老い」のように思います。人妻とはいえ長年慈しんできた恋人より、自分をじーさんとしか思っていない、娘の方に強く深く牽かれてまう。ああ、「死の如く強」い、哀しいオヤジのサガ。ここでも、「若さ」(もしくは「欲望」や「官能」)に「愛」が負けるわけです。

コレットはバイセクシュアルの女流作家、モーパッサンはバイかどうか知らないけど、オトコの作家(男流作家って言葉なくて残念)。この二人が、それぞれ、女と男の視点で、若い女の魅力に負けるたそがれ時の女(と男)の姿を通して「愛は無常、そして老いは残酷」というお話を書いてるわけです。(話違うじゃん、「愛は克つ」んじゃなかったのかよー、などと言ってみたくなります。)

そして、「死の如く強し」の方は、男も女も行き詰まって、無常感に打ちひしがれたまま終わります。若い娘は当然見向きもしないしねー。コレットの方は、作品を書いた時の年齢(彼女がわりと若い時の作品)にもよるのか、男女の差にもよるのか、続編「シェリの最後」で、奥さんのとこに戻ったシェリを迷走させ、若い身空での自殺に追い込んでいます。一方、女の方は、ふっくら明るい、お気楽極楽な老婆になって、楽しい引退生活をしているのだ。ああ、これもある意味無常・・・。

てなこと書きながら、実を言うと「シェリ」で素晴らしいのは、何と言っても、文章であり、ウットリするような見事な描写、それも特に男女の美形描写なのであった。(さすがバイ?!)これが楽しいので、ストーリー的にはつらいもんがあっても、読むのがやめられないのであった。

だって、例えば、シェリの美青年ぶりったら、すごいのだ。
愛人(年はいってても、超美女の高級娼婦)の真珠の首飾りを裸の胸にかけてみて、
やはり自分の方が似合う、と傲慢に主張するほどの美青年なのである(^^;)
すれ違った女達が、「信じられない、触ってみたいって感じ」って振り向くのは日常のこと。
レストランに入っていくと、座っている女達が、ご飯を食べるのを忘れてしまうのである。
不健康に遊び惚けた寝起きでさえあまりきれいなので、遊び仲間の男が本気で嫉妬するくらいなんである。
ええのう(@^^@)
で、続編での死に顔もとてもきれい。
やはり、美青年はきれいな内にあっさり若死にしていただくしかないのであろうか。。。

P.S.
本日(7月1日)、気になったとこをポチポチ直しましたー。え?まだワケわかんない!?
posted by miquage at 20:23| Comment(3) | TrackBack(2) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月28日

「うつくしい子供」(Beautiful Child)

平仮名にしただけで、ほんとに「うつくしい」感じがする上に、はかない感じのニュアンスまで加わる。この形容詞の後につくのが、「子供」だから、やはり「美しい」より「うつくしい」でなくちゃならない。

このタイトル見たとき、ちとオヤジらしいあざとさはあるけど、やるねぇ!と思った覚えがある。この短編集を気に入って、一作だけの翻訳業をやった野坂昭如って、さすがに作家であるだけのことはあるかも、と。

「ところで、これは何ですか?」
「トルーマン・カポーティが、マリリン・モンローについて書いた短編のタイトルです」

カポーティは、やはり今でも心底好きな作家だけど、どうしてもやはり処女作の「遠い声 遠い部屋」が最高。結果的にも、21歳で出したこの処女作を越えられなかった人だと思う。(「冷血」はすごかった、うん、ほんとにすごかったけど、ねえ。。。)

後半生は、アメリカ芸能界版「おすぎとピーコ」風のゲイのおじさん作家として過ごした。当然、マリリンとも大の仲良し。その彼女を、彼は、「うつくしい子供」と呼ぶのである。ちなみに短編集では、この「うつくしい子供」が入っている、「カメレオンのための音楽」(野坂昭如訳)が一番よかった。好きという言い方で言えばもっと好きなものはあるけど、質的にこれを越えるものはないんじゃ、と思う。

この間、年輩の評論家が、自分達が若い頃、マリリン・モンローはあこがれというよりお笑いだった。映画であのおっきな胸とお尻をふりながら出てくると皆どっと笑ったものだった、って書いていて、かなり腹が立った。そんなはずはない。実際、私の周囲の年寄りはみな、マリリン・モンローはほんとうに可愛くかつ美しかったと言っている。

・・・こういうことでハラがたつのは、マリリン・モンローがけっこう好きだからだ。さすがに最後のころの映画では身体の線がくずれてしまって、もちっとお腹とかひっこめたら、と思ったものだけど、若い頃の映画はほんとによかった。

男が女に求めるものをすべてもってる、と言われていた女優だけど、女性ファンもとても多かったはず。特に日本ではそうだったはずだ。(本人はイヤだったんだろうけど)笑っていない時は寂しげな、よるべない子供のような顔になるとこもよかったのだ。さすがに私はオンタイムでは見てないが、写真集では、そういう表情が見事に写しとられていて、胸にせまるものがある。

マリリンを頭の足りないブロンドの代表のように考えるのは間違っている、演技も本格派だったし、セリフだって実は全部覚えて現場にきていた、という話は何度も書かれている。だけど、とても運の悪い女だったことは確か。内面と外面のアンバランスさから生じる矛盾に押しつぶされていく過程のような人生だった。

「うつくしい子供」とだけ書くと、白痴美のような感じがするけど、カポーティが言っているのはそうじゃなくて、天からこの世にもたらされた何か特別の「うつくしい子供」だったってこと。人の世にはそぐわない人間だったということ。何かが欠けているか何かが過剰、そうするとこういう人間ができるのじゃないかと思う。
posted by miquage at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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